どこまで続いてるかも分からない階段をたくさんの人が次々と駆け下りていく。はやく、はやく足を動かさないと皆に置いていかれてしまう。分かってはいるのにどうしても力が入らなくて、手摺を握ったまま座り込んだ。
こうなったら座った姿勢のまま一段一段おりていくしかない。これじゃあ皆に追い付くのに何年もかかりそうだ。
後ろからまた一人、また一人と私を追い抜いていく。何人目かも分からない背後からの足音が、不意に鳴り止んだ。
「だいじょーぶ?」
聞いたことある声だ。全然真面目そうじゃなさそうなのに、どこか柔らかくて安心する声。
その声の主は座り込む私の横に同じように腰かけて、私と目線の高さを合わせた。
「ゲン」
「どうしちゃったの?足、痛い?」
「痛くはないけど……」
さっきから足が思うように動かない。立っていると真っ逆さまに落ちる想像しかできなくて、だけど進まないわけにもいかなくて。
「私ゆっくり行くから、ゲンも先行ってて」
「それはリームーかなぁ……」
おもむろに立ち上がったゲンが、そのまま私に向かって手を差し出す。
「ほら腕、掴んじゃって。はやくはやく」
「なんでちょっと楽しそうなの」
立ち上がった途端に足がガクガクと震えだす。ゲンの親切を素直に受け取る余裕もなくて、返事のかわりに思い切り彼の腕にしがみついた。
こんな階段の途中で、ゲンだって危ないはずなのにゲンは不思議とびくともしなかった。
「ゆっくりね〜そう、上手だよ」
「や、待って、置いてかないで」
「行かないよ。どこにも」
夢の中なのに、感触も温度も匂いも声も妙にリアルだった。
あれ、夢。そうかこれは夢なんだ。
ハッキリ分かった瞬間、私は瞼を開いた。
辺りはまだ真っ暗で、どうやら夜明けという時間でもないようだ。
心臓がまだ早鐘を打っている。さっきまで見ていた夢を鮮明に覚えていた。目覚めと同時に消えてしまうこともあるのに、そうはいかないらしい。
目を閉じたら、さっきの続きが見られるだろうか。
今私が起きている間、あの夢の中の私はどうなってるんだろう。案の定、階段から落たかな。ゲンを驚かせてしまったかも。混濁してく意識を完全に手放すのに、そう時間はかからなかった。
「名前ちゃん、昨晩ちゃんと眠れた?」
人の気も知らないで尋ねてくるゲンは恐らく純粋に私を心配してくれている。
たとえゲンであっても、私が言いさえしなければこの目の下のクマの理由なんて知ることもないだろう。
「夜中に目が覚めちゃって……」
実はほとんど君のせいだよ、夢の中の。こんなこと言えるわけない。
あの夢を見た後は特に何事もなく、目が覚めたら朝だった。他の夢も見たかもしれないけれど記憶がない。
夢って、ほとんど記憶の整理だと私は思っている。実際に自分の身に起こったこと、映画の内容、テレビのニュース。色んなものがごちゃごちゃに混ざって変な夢を見てしまうのだ。
その理論でいくと私はゲンに触れた時の体温とか匂いだとか、そういうものを記憶に刻んでることになる。触れ合うような関係でもないのに?
ぶわっと、耳の辺りが熱くなるのを感じた。
「え、顔真っ赤」
「言わなくて良いからそういうの。ほっといて」
「それはリームーかなぁ」
夢で見た台詞と全く一緒。ゲンって本当は……本当に、人の頭の中を覗きこめるんじゃないだろうか。
「な、なんでちょっと楽しそうなの」
夢でも聞いたけれどゲンは答えてくれなかった。本物はなんて返してくれるだろう。
「んーなんでかな、なんでだと思う?」
「知らない。べつにゲンが面白がる理由なんなんかないよ。変な夢見ただけ」
「そうなの?」
結局喋るはめになってしまった。質問してるのは私なのにゲンは逆に言わせようとしてくる。本物のゲンはちょっぴり意地悪だ。
「ねえねえ名前ちゃん、その夢ってもしかしてこんな感じ?」
一歩距離を詰めて近付いてきたゲンを見上げたまま息をのむ。
「は……?ち、違うよ……こんな、」
いつの間にか、彼の大きな手が私の手を覆うように握っている。
階段が下りられなくて困っていた私にゲンは迷うことなく手を差し伸べてくれた。なりふり構わずみっともなくすがっても、そばにいてくれた。私はそれがたまらなく嬉しかった。
「夢ってなんなんだろうね」
「さあ……」
「俺の気持ちが通じちゃったのかと思ったんだけどな〜」
じとり、手のひらに汗が滲んでいく。
「ほら言うでしょ?夢に出てきた人って、その相手の方が実は会いたがってるって」
ゲンが夢に出てきたなんてひとことも言ってないのに。カマをかけられたと今更気付いても、もうどうしようもない。
「迷信でしょ」
「まぁ千空ちゃんあたりに言ったら絶対否定されそうだよね、こういうの」
夢の中でも現実でも、かわいげのない私。それでもゲンは私から離れようとはしなかった。
「迷信っていうかこれは俺のワガママなんだけど。今日見た夢のこと全部俺のせいにしてって言ったら、怒る?」
そんな聞き方、ずるい。怒れるはずないし、私のちっぽけなプライドと恥じらいさえなければ今すぐにでもその腕にしがみついてやりたいくらいだ。
「怒んない。で、でも夢の中のゲンの方が100億倍優しくて頼もしかったから!」
「ドイヒ〜!そしたら今日も名前ちゃんの夢に俺が出てくるように今から頑張っちゃおっかな」
夢の中で、彼が少しもよろけず歩いていた理由が分かったような気がした。
「普通にしててよ、ほんとに寝不足になっちゃう」
「…………ジーマーで?」
2021.3.11
back